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「サッカースタジアムは、巨大な建造物の中で裏表が逆になっている数少ない建物のひとつである。楕円形の競技場は世界を排除し、その神秘を秘伝を授けられた者たちにしか明かさない。テレビでさえ、それを犯すことはできない。とらえ始めることさえできない」 -狂熱のシーズン- 清義明のブログ
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御用牙参考図書
「狂熱のシーズン―ヴェローナFCを追いかけて」
サッカーを新しい信仰として選ぶ人のために

「サッカースタジアムは、巨大な建造物の中で裏表が逆になっている数少ない建物のひとつである。楕円形の競技場は世界を排除し、その神秘を秘伝を授けられた者たちにしか明かさない。テレビでさえ、それを犯すことはできない。とらえ始めることさえできない」
サッカーサポーターとは何者なのか?
ゴール裏のクルヴァスッドで、アウェイの駅で、遠征のバスの中で、サッカーは歪んだ現代の宗教として輝き続けていく。その様を、まさにサポーターのど真ん中でレポートするノンフィクションであり、その神話体験を愛すべき「ブリガーデ・ジャロ・ブルー(黄青旅団)」とともにイタリア中を駆け巡るひとつの旅行記である。
サッカー「ファン」は、この本をきっと理解できないだろう。うわべに出てくるレイシズムや下卑たエピソードを、無理やりにサポーターという人種にひっかけて語るぐらいしかできやしない。だから、この本は、サッカーを単なる美学的な体験として受け取ることができないで、日本中を旅して歩く本当の「サポーター」にとって必読の一冊。
著者は、イタリア在住の「現在もっとも精力的な活動をする英国人作家」であるTim Parks。
教養にあふれた筆致とサッカーカルチャーの分析は、必ず新しいサッカー理解のパースペクティブをもたらし、あなたをアウェイの遠征に狩り出します。


「東京大学応援部物語」
「応援する」とは何なのか?

「応援する人間は、応援される人間より強くなければならない」 「より努力する人間こそ、人に対してがんばれ、といえる」
応援に垣根はない。例えその対象がなんであれ、その精神的かつ行動的な営みは変わらない。 本書は、東京大学の応援部のルポタージュであり、同時に応援するというのはどんな行為なのかを、それぞれの学生達の横顔とともに語られている。 彼らの活動を知れば、いかにサッカーサポーターの精神論がまだ純化されていないかを知ることになると思う。 まだまだ俺らには雑念が多いね。 若々しい青春群像に引かれるもよし、の一冊。

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「人間は死ぬ、だから幸せには決してなれない」と喝破したのは、カミュの『カリュギュラ』の主人公だ。

これをまた井伏鱒二は、唐の酒呑み詩人の四行詩を訳しつつ曰く、「サヨナラだけが人生さ」


人生なんてものは楽しんだものが勝ちなんだよ、という意味のセリフと解釈しよう。ボブ・ディランが明らかに黒澤映画からインスパイアされてつくったと思われる『見張り塔からずっと』という曲では、"Life is but a joke" (人生なんてジョークに過ぎない)とリリックにある。


さらにまた違う表現にすると、ブルース・スプリングスティーンの「オレたちは走るために生まれてきたんだぜ」("Born to run")というセリフになる。

まあ、これはカッコよすぎるか。




彼女に最初に会ったのは、もちろんスタジアムなんだけれど、それがどういうきっかけなのか今ひとつ思い出せない。

2回も優勝させてもらい、まだまだ今みたいに日程も待遇も優遇されていないACLにチームにつれてかせてもらったり、A3みたいなのにも行かせてもらったんだから、きっと楽しかったことだろう。




オレにとって、スタジアムは試合の勝ち負けのためだけにあるのではない。もちろん、それが重要なことであるとしても。

よく、ゴール裏やサポーターを、「町内会」みたいなものだと表現で言い表すこともある。
仲のいいヤツが集まって、ひとつのことを共有して楽しむ。時には悲しむこともあるだろうが、何かをしたり、顔をあわせてひとつの目的にむかっているというのはいいものだ。
当然間柄が良いヤツも良くないヤツもいるだろう。しかし、それは近所の共同体の中で、顔をつきあわせて生きているわけで、結果的に同じ方向を向いている。

彼女はそういうネーションのなかで、毒舌を吐きながら、楽しそうにしていた。



のっぴきならぬ状況となっていると知ったのは、すでに去年の年末。

無理して山形まで来ていたのも思い出す。

が、それよりも、オレが覚えているのは、ACLで山東にいったときに警備の軍隊の目をちょろまかしてL旗を持ち込むために、それを体にグルグル巻きにして警備ラインを突破したときのことや、異国のタイのパッポン通りで勝利のマリサポ打ち上げをしているときに、疲れて元気なさそうにしているので、おっぱいわしづかみにしたらガチでぶっとばされたとか、そんな思い出だ。

そういえば、「サトチンコ」という名前をつけたのもオレだった。
語尾のゴロからして呼ぶのが恥ずかしいということで、「チェンコ」と呼んでいる連中ばかりになったけど、そもそも「チンコ」だよ、ヤツの名前は。

秋葉原で仕事していたから、チョコチョコとメシとかも行くときもあった。そんなの知らねーだろ。パソコンまわりの機材メーカーに勤めていたから、安い値段で機材もかわせてもらった。

しかし、最初の出会いが思い出せない。
あれは、2003年の頃。「屋根下ーず」(今のヘッズの前身ね)とか後から名前がついた連中で、いろいろやりはじめていたのだが、あの頃は楽しかった。今考えるとイタイ集団だったと思うけれども。あれはあれでよかったのかも知れない。
たぶん、最初にやりはじめた4-5人の頃からいたはずだ。


mixiでは食い物の話ばかり書いていたので、もっと男をつくるとかなんとかしろ!と説教したら、ムキになってその後食い物の話ばかり書いていたこともあったな。本当になにもかもみな懐かしい話だ。

ムキになってといえば、あれだけヤメロと言っていたラボーナのパーカーを最後まで着ていたのもアイツだった。「ケツ毛パーカー」と名づけて、そのオブリブランドのゴール裏からの撲滅を画策していたのだが、今日お棺をのぞいたら、死化粧の顔に「ケツ毛パーカー」が着せてあったよ。なんというアホなことだ。




そして最大にアホだなあと思うのは、やっとチームがいい状態になったこの今になって死んじまうことだ。
たぶん、来年オレたちはACLに行くだろう。

これはくやしがるだろうな。しかし、それはおまえがいけないのだ。
今年は優勝して、来年はACL。その時々でくやしそうなヤツの顔が思い出すことになるだろう。






「選手と監督は来ては去る、しかしオレたちは永遠だ。」

エラス・ヴェローナのことを書いたイギリスの作家の本には、本当にたくさん影響を受け、そしていろいろと学んだのだが、あらためてこのヴェローナのスタジアムに掲げられたダンマクの意味を思う。確かにオレたちは永遠である。



そういうわけで、オレのゴール裏の人生で一番長いつきあいだったひとりが永遠になりましたという話でした。



オレたちはさらに祖国ヨコハマとともに走りつづけよう。

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